無色の空地

 もうたくさんだ。こんなはずではなかった。これまでも大切なものが消えていったが、インク壜でさえどこかに行ってしまったのだろう、机上から消えていた。やむを得ず彼はつけペンのペン先をしょうゆ皿のしょうゆにつけて、いま、この文章をしたためている。

 もう一度書いておくが、インク壜だけではなかった。もう後がなかった。十一年前に彼女がこの世から消えてしまったが、それ以後、つぎつぎ、あらゆる大切なものがいったい何処へ行ったのだろう、皆目不明のまま、姿を消した。

 さすがに限界だ、彼はそう独り言ちた。皿にしょうゆを継ぎ足して、もう一度ペン先を浸した。もうすぐこのしょうゆも尽きる。もちろん、その時が来ればこの文章も断たれてしまうだろう。あとには白紙だけが、あるいは白紙も去って、無色の空間だけが机上を漂っている。いつしか室内から机も、室内それ自体も運び出されていた。ペンを握りしめたまま彼はいったい今頃何処をうろついているのだろうか。確かに、彼の最後の一行の通り、ここには無色の空地だけが残された。

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