湿地帯

 樹木に覆われているのだろうか。樹木のトンネルだろうか。そんな馬鹿な。待てよ。だったら、それとも、レンガとか、コンクリートだとか……外面を墨で固めたのだろうか、黒く細長い穴がずっと続いているが、いったい何で出来ているのかよくわからない。ただトンネルの向こうは仄暗い街並みが見えている。Mは恐ろしくてこのトンネルを歩いてあの街へ行くのを断ろうとしたが、いつものことだが、自分の気持ちを主張するのがためらわれて、断り切れず、トンネルの中を歩きだした。

 おそらく街はまだ仄暗い黄昏時か、あるいは夜明けか、そう判断してトンネルさえ抜ければ何とかなるさ、Mは事態をそんなふうに甘く見ていたのだった。だがいきなり叩きのめされてしまった。トンネルの向こうもやはり墨で塗り固められた世界だった。何の目標も目的もなく、Mは墨に塗り固められた中を歩き続けねばならなかった。右耳のそばで、こんなリカの声だけがした。

 ―ねえ、ヤミオちゃん、聞いて。だって、あなたの絶望なんてまだまだ子供じみた夜店のたわごとなんだもの。

 あたし、三十過ぎで子宮頸癌になったの。この病気はね、ご存知? 男との性交渉で感染する癌。あたしの夫は友人からそんな情報を仕入れてきて、散々あたしを責めたの。おまえ誰と不倫していたんだ。さっさと白状しやがれ。ちくしょう。このアバズレ!

 丸裸にされて、両腕に手錠されて、鎖でベッドの脚につながれて、むち打ち。まるでサドの小説「悪徳の栄え」。あの時の傷跡、まだ背中に残っている。見たい?

 毎晩いじめられたけど、あたし結婚する前に付き合ってた恋人から子宮頸癌をプレゼントされていたのがわかったの。だからお見合いで一緒になった彼はあきらめた。しかたないでしょ。二十四でお見合いしたのよ。その歳までに男の一人や二人、あって当たり前。結局、十年後離婚したのはヤミオちゃん、知ってるよね。わかって、離婚理由は、子宮頸癌。

 どう。ヤミオちゃん、わかった。あんたの絶望や苦しみなんて、まだまだよ。いい。まるで子供だまし。コ・ド・モ・ダ・マ・シ……

 どれほどの時間を歩いていたのかもうMにはわからなかった。リカの果てしないオシャベリ以外、音はしなかった。だが、辺り一面ネタネタした街路に差し掛かった時、固められた墨の外壁が崩れて落ちてきた。リカの声が消えた。恐ろしくなって立ち止まった。俺はもしかして墨に埋没するのか。何だこれは。何が体からチトチト流れ続けているんだ。墨が流れているのではなかった。墨ではないネッチョリした液状物。しかしMの体だけではなかった、ここはすべての存在が無音の湿地帯だった。

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