手首の気配

M タナカさんですよね。

  それじゃあ、タナカさん、私の会社とあなたの会社とひとつにして、いっしょに明日から頑張ってやろう、結論はそれでいいんですね。

  だったら、あとはお任せします。

タナカ ああ、そうだ。それで、社長はこの人になります。女性社長の方が、この時代にマッチして、売り上げがあがり、若くて美人で優しい人柄ですから会社のイメージもアップして、はい、社員一同、きっともっと幸せがやって来ますよね。

 タナカはMにチラッと書類を見せて、確かに女性の顔写真もその中には紹介されてはいたが、その映像は視界からすぐに消えていた。消灯でもされたのか。まだ午後も早いと思っていたが、既に黄昏も終わって夜になっていたのだろうか。

 Mには新会社の事務所がいったい何処にあるのか、皆目見当もつかなかった。だが、確実に、彼の営業権だけは消えていた。彼は自分が一介の浮浪者に過ぎないと気付いた。どこにも収入減がないばかりではなく、家屋さえ差し押さえられて寝泊りも出来なかった。やむを得ず、その夜は近所の芦屋川の橋の下で寝ていた。これから本格的な冬になるのだったが。

 橋の下であおむいていると、画面全体はボンヤリ灰色にくすんできた。霧が出ているのだろうか。どうやら彼はポケットに手を突っ込んで、靄になって何も判別できない不明瞭な界隈を歩いていた。Mは孤独というより、むしろ恐怖を覚えていた。「とうとう、追い込まれてしまった……」。どうして? 理由は分からなかった。思い当たる節は何もなかった。けれど確実に言えることは、背後から、彼を絞め殺そうとスキを伺っているふたつの手首の気配がした。

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