駒井哲郎Retrospective

閉館まぎわに訪れたのをいまでも鮮やかに覚えている。その頃、ある地方の美術雑誌社に関係していた僕は、大阪の高宮画廊で催されていた「駒井哲郎版画展」を取材するために街角が闇に沈もうとする刻限に。

地下への階段を降りると既に照明は落されていたが、初老の係員が、ひょっとしたら画廊の社主だったのかも知れない、再び照明が。室内の壁面いちめんに駒井哲郎の版画が浮かびあがった。

1974年2月。四十年近い歳月がたっている。
2012年6月13日、東京。僕は世田谷美術館でふたたび駒井哲郎の作品の前に立っている。

「闇の中の黒い馬」(埴谷雄高著、駒井哲郎挿画、1970年6月26発行、河出書房新社)

おそらく、この本の挿画を見て、駒井哲郎に注目したのだろうか。いや待て。違う。この本の特装本が出ていて、買おうかどうか迷った記憶がある。かなり高価だったので、やむなく廉価な普及版を買ったのだった。だから既に駒井哲郎の作品を知っていたに違いあるまい。しかし、そんなことはもうどうでもいいのだった。それより、世田谷美術館の回顧展に出品された作品NO39-5「僕はきたならしい」(1951年作、カタログ57頁)、詩画集「マルドロールの歌」の第4歌第4節の挿画について思い出を語りたい。
僕が四十年近い昔に観た同じマルドロールの歌第4歌第4節の画はこの回顧展に展示された作品とは異なって、ダイナザウルスに似たコミカルな怪獣が背中を見せたまま振り向いてシニカルな笑いを浮かべている姿だったと記憶する。しかも題は「僕はきたならしい」ではなく、「私は汚らしい」だったのでは。ちなみに、この節のさわりだけでもご紹介しておく。僕は駒井哲郎が挿画した青柳瑞穂訳の「マルドロールの歌」を持っていない。栗田勇訳と渡辺広士訳の二冊である。ここでは渡辺訳で。

「おれは汚い。虱どもがおれをかじる。豚どもはおれを見ると反吐をはく。癩病のかさぶたと結節がおれの黄色い膿だらけの皮膚をうろこのようにおおってしまった。おれは川の水も雲のしずくも知らぬ。おれの首には糞だらけのわらから生えるような大きな茸が傘の骨の形に生えている。」(ロートレアモン全集131頁、1969年1月10日発行、思潮社)

余談ではあるが、挿画といっても、こんなロートレアモンのイメージに触発されながらも、いかに駒井流の作品が結晶されているか、ぜひ機会があればご覧いただきたい。
四十年近くまで再びさかのぼってしまうが、実をいうと、僕は高宮画廊で駒井哲郎の作品が欲しくなって、どの作品を買おうか迷った挙句、マルドロールの歌第4歌第4節の挿画「私は汚らしい」、「束の間の幻影」、言うまでもなくこの作品は後年、結城信一が同名の小説をものしているが、もちろん音楽家プロコフィエフのピアノ曲からきている、そして「蟻のいる顔」の三点のどれにしようかと更に迷い、丸山薫の詩画集の挿画でもあった「蟻のいる顔」を選んだ。
おそらく駒井哲郎は「マルドロールの歌」第4歌第4節の挿画を違った趣向で二枚画いているのではないか、コレクターでもないので僕には確信もないのだが。「ひょっとしたら二枚ある、ひょっとしたら二枚ある」そんなふうに脳裏で呟きながら、世田谷美術館のロートレアモンの前で立ちつくし、色あせた記憶をたぐりよせ。

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