久しぶりに、「サルトル」を読む。

 おおよそ五十年前後昔の話である。ボクが十代だった頃、カミュやサルトルに代表される、所謂「実存主義」がもてはやされた。しかし「実存主義」って、今ではもう限りなく死語に近づいているのだろうか。あの当時、カミュの小説「異邦人」に至っては、ボクは三回も読んだのだが。

 第二次世界大戦に敗戦して、心も体も焼野原になっちゃった日本人に、戦勝国から二つの思想がやってきた。戦前から一部では評価されてはいたが、徹底的に弾圧されてしまったマルクス主義、戦後は中国革命等によって世界を二分したその一大勢力の思想、かたや資本主義国の側からは、フランスを中心にした「実存主義」。

 今ではボクはこんなふうに考えなくもない。大ざっぱに言えば、客観的な世界(客体)の理解は「マルクス主義」、主観的な世界(主体)の理解は「実存主義」が担当して、この両者相まって人間全体が理解できる、だから、ある意味で、世界大戦の荒廃からの復興という希望に燃えていた、大いなる目標があった、そんな楽観的な時代を反映した思想だったのかもしれない。

 サルトルの小説「嘔吐」は1938年5月に発表されている。この小説が、カミュの「異邦人」とあわせて、ボクならびにボクと同世代の文学少年に衝撃をあたえたことは、想像に難くない。あれから、五十年くらいたって読み返してみても、やはり、ステキな小説だなあ、そんな感慨を抱いた。

  新潮世界文学47  「サルトル」

 奥付を見ると、発行日が1969年2月20日となっている。ワイフが持っていた本で、彼女は二十一歳のとき、この本を買ったのだろう。その頃はまだボクは彼女と一緒に生活をしていなかったので、この本は読んでいない。サルトルは図書館でボクは読んだ。二年余り前にこの世を去ったワイフを偲んで、彼女と読書体験を共有するために、ふたたびワイフの本でサルトルを読んだ。

 この本には以下の作品が収録されている。小説六篇、「嘔吐」「壁」「部屋」「エロストラート」「水いらず」「一指導者の幼年時代」。戯曲五篇、「蝿」「出口なし」「恭しき娼婦」「汚れた手」「アルトナの幽閉者」。

 街路が「ある」。木が「ある」。公園が「ある」。マロニエが「ある」。ベンチが「ある」。しかし、「ある」から見れば、これらすべての存在物はあらしめられてあるのだった。この物語、つまりボクは「嘔吐」について語っているのだが、主人公ロカンタンに強迫観念のようにのしかかってくる宣告、「あなたは存在している」、この無気味な主題が常にスクリーンの裏側に浮かんでいる映画館、その白い表面にさまざまな言葉が語られ、えんえんと黒いインクで記述されていく。

 人間は自由であることを決定されている。かつてサルトルはそう語った記憶があるが、この「嘔吐」では、自分の意志や欲望とは関係なく、ロカンタンはこの世にまったく偶然にほうりだされて存在している。そういった生きることそれ自体の不快感が作品の言葉から滲み出してくる。むしろこう言った方がいいのだろうか? 主語が消滅した、述語だけの世界にボクは生きている、と。

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