星野元豊の「講解教行信証 補遺篇」

 本書は星野元豊が八十六歳の時に上梓されている。丁度四十歳年下だったボクは、三十代半ばから徐々に好きだった宗教・哲学あるいは経済学の書をほとんど読まなくなっていた。もともと詩、とりわけ明治以降の近代詩から現代詩を十代から趣味していたので、そしてその頃出版したボクの詩集がたまたま大阪の或る詩誌の詩集賞を受賞し、ますますその方面にのめり込んだ。詩への煩悩はいよいよ激しく、その上、ワイフとふたりで始めた商売も軌道に乗り、本書が出版されたことさえ知らないでいた。

 このたび、「講解教行信証」を読み始めた時、ネットでその「補遺篇」が出版されていることを知り、もう古書で手に入れるほかないと思い、画面のあちらこちらを探した。1995年10月10日に出版された初版本は古書で確認するとかなり値段か高くなっていた。それを購入しようとしたが、念のためこの書を出版している法蔵館の出版目録を調べた。驚いたことに、ボクが持っている全六巻「講解教行信証」が全四巻に再編集されて、また、本書「補遺篇」も第二刷が発行されていた。

 「講解教行信証 補遺篇」 星野元豊著 法蔵館 2009年10月10日 初版第二刷

 星野元豊は1983年9月10日に第六巻「講解教行信証 化身土の巻(末)」を世に出してからこの「補遺篇」の初版を世に問うた1995年までの十二年間に、ボクの知る限り、二冊の本を出版している。

 「親鸞と浄土」 三一書房 1984年1月31日発行

 法蔵選書40「教行信証」 法蔵館 1985年11月30日発行

 ボクは両書とも出版されて直ぐ読んだ記憶があるので、三十六歳で読んだ法蔵選書40「教行信証」が最後で今日まで星野元豊の本から離れていた。三十二年の歳月が流れた。

 時折、今でも思い出している……。一九七〇年前後、ボクのような所謂団塊の世代は二十歳前後だったわけで、現在では信じられないだろうが、ベトナム戦争や大学紛争などの影響で、革命運動や反戦運動におおぜいの若者が参加していた。ボクもまた自分なりに革命運動をかじっていたが、他の人はいざ知らず、ボクはこの世を過激に批判・否定しながら、別の所で書いているのでここでは省略するがさまざまなことがあって、ひょっとしたら、批判・否定されなければならないのはこのボクという主体ではないか、そう思いつめるのだった。つまり、あたかも神の如くこの世・この世を生き抜かんとしている人々を批判・否定している、このオレこそ罪悪深重、罪と泥そのものではないか。そういう思いに打ち砕かれてしまった。そんな時、滝沢克己や星野元豊の本がどれだけ救いになったことだろう。例えば、三願転入を主体的な論理で展開している星野元豊の「浄土」を読んだ時、どれだけ貧しいこの心に安らぎを与えられたことだろう。結局、ボクは無信仰のままで人生をわたってきたが、たとい無信仰な人間でも、生かされて生きている、この事実、星野先生が再三指示している事実、この事実を受けて三界を感謝して流転してきたのだった。ボクにとって、生まれてからこのかた、六十八年間、とりわけ三年前に先だたれたワイフと共にした四十三年間、もしこう言ってよければ、無信仰にもかかわらず、神から贈与された時間だった、そう確信している。

 本書には、親鸞の「入出二門偈」からこの文が引用されている。

[淤泥華というは『教』に説いて言まわく、「高原の陸地に蓮を生ぜず、卑湿淤泥に蓮華を生ず」。これは凡夫、煩悩の泥の中に在て仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。これは如来の本弘誓。不可思議力を示す。](本書112頁)

「真の生きた涅槃は、無住処涅槃である。涅槃の静にあって般若に止まらず、涅槃にあって涅槃に住せず、また汚濁の煩悩の世界にあって煩悩の塵に染まず、常に清浄に真実に一切衆生に畢竟涅槃の悟りを開かしめるのは、般若方便を摂し、方便般若を摂して、互いに不二の関係にあって、生きてはたらくからである。真実の救済の構造とは、まさにこのような般若と方便の関係構造なのである。」(本書137頁)

 四十年前の春、大嵓寺を訪問した時、奥様が応接してくださった。にこやかな表情で、わざわざ遠いところからこんなところまで、ガラス戸を開けて、どうぞこちらからお入りください。ボクが板の間の廊下に立つと、奥様は正座して最敬礼の姿勢で深いお辞儀をされた。礼儀作法をわきまえぬボクは、どうしていいか、どぎまぎしてしまって立ちすくんでいた。

 おいとまする時、ふたたび奥様は廊下に正座して、深いお辞儀をされた。星野先生も板の間に正座して、上体を床へ傾け、深いお辞儀をしておられた。ボクは庭を横切りながら、何度も振り返った。門を出る最後の瞬間まで、先生は廊下に正座して、深いお辞儀をしておられた。

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