エックハルトの「神の慰めの書」再読

 先日、「エックハルト説教集」を読んでみたが、確か同じ著者の本がもう一冊あったはずだ、本棚を探して、それを抜き出した。

 「神の慰めの書」 M・エックハルト著 相原信作訳 講談社学術文庫 昭和60年6月10日第1刷発行

 この本の著者の考え方は、まず人間の二重性から始まる。つまり、人間は、外面的人間と内面的人間とで構成されている。外面的人間は五感を中心とした身体が外部世界と接触・関係し、さまざまな色や形や味・臭いなどに変形して内面的人間へ流入する。その流入物を内面的人間は主に意志・理解力・記憶によって反応するのだった。反応する流動状態は、喜怒哀楽などの感情的な言葉で表現できると思うが、しばしば動揺し、果ては不安や絶望に転化する。こうした不安定な「肉」の世界から脱出して、いかにして平安なる「霊」の世界へと到達することが出来るのか、著者はすすんでその方法を論じるのだった。

 その方法とは、こうだ。……まず、外部世界とそれに反応する身体で構成された外面的人間から離脱して、内面的人間それ自体の世界へ沈潜しなければならない。この状態を著者はこのように表現している。

 「すべての被造物を捨離する純粋なる離脱」(本書186頁)

 外部世界や感官を中心とした身体から形成される認識を絶対否定する内面的人間、著者はそれを「魂」と呼んでいる。それでは、いったい、なぜ、このような被造物から離在した魂へと純化されねばならないのだろうか。それには、二つの理由があった。

 その1.私が私を強いて神に到らしめるよりは、私が神を強いて私に来たらしめる方が高貴である。(本書187頁)

 その2.離在は私を強いて、私が神以外の何物をも受容しないようにする。(本書187頁)

 この辺りはわかりにくいと思うが、例えば、キリスト教では、「心の貧しい人は幸いである」、こうした強い認識がある。「心の貧しい人」とは、すなわち、外面的人間から離在した人であって、その貧しい心、離在した魂に、神は自らやって来るのだった。それを恩寵というのだろう。また、注意しなければならないのは、キリスト教では、人間は神の似姿である、そう認識されている。そして、神の似姿は、外面的人間ではなく、内面的人間である。従って、被造物から離在している魂は、神の似姿だった。

 さらに、エックハルトはこのように言っている。

 「人間が神の故に自己自身を否定し、神と一になるかぎり、彼は被造物というよりもむしろ神である。」(本書247頁)

 言うまでもなく、著者にとって、「神」とは概念ではなく、色も形もなく、時間も空間もない。人間の言語では表現できないが、あえて表現するならば、「無のようなもの」であった。また、外部世界と身体との反応を離在した内面的人間をいよいよ純化すれば、その魂も人間の言語であえて表現すれば、「無のようなもの」としなければならない。だから、著者はさらにこのように言うのだった。

 「もしお前が神によってお前自身から全く脱出し切るならば、神はお前によって彼御自身から全く脱出し給う。この両者がともにかく脱出するとき、そこに在るのは単一なる一者である。」(本書307頁)

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