「風のたより」24号を読む。

 伊川龍郎さんから雑誌が送られてきた。

 「風のたより」24号 発行所 風のポスト 2022年1月

 執筆者は同誌23号と同じ五人のメンバーだった。

 まず小坂厚子の詩二篇。二篇とも特殊な時間を表現した詩だった。一篇は、スナック風の猫屋敷に得体が知れない人か、あるいはさまざまな動物か知れないが、彼等を囲んで夜から朝までの時間を、もう一篇の詩は、青谷坂からそれを下りきって海が見える場所までの途中の時を、言葉で刻んでいた。閉鎖された空間に流れる時間だった。明るいタッチで描かれているが、ひょっとしたら根底には暗い影が横たわっているのか。無意味性という影が。

 松岡祥男は、前誌23号と同じく、「猫」と「松」の二人が演じる対話劇だった。「脈」という雑誌のエピソードや、兄弟の話、吉本隆明への思い、果ては自作の詩を紹介していた。スピード感がある展開だった。

 若月克昌の作品は、連作なのか、前誌とおそらく同じサラリーマンが登場して、物語は金曜日の社員食堂の昼食から始まり、提出期限が迫った「危機管理報告書」を仕上げなければならないが、労働時間の管理が厳しく残業が出来ないために我が家に持ち帰り、ついに完成、遅い夕食に「カレーライス」を食べよう、そう呟いたところで終わっている。その日の昼食で食べた「カレーライス」が課長との「危機管理報告書」提出遅延に関するイヤな会話で食べた気がしなかったから、もう一度ゆっくりカレーライスを味わって食べたい、そういう思いが込められた作品だった。どうやらこのサラリーマンは総務関係の仕事をしているようだった。ささやかな事柄を、力まず、ささやかに描くって、ステキなことではないだろうか。

 松本孝幸の力作「<線>から見たマンガ表現(2)」は、線の二重性、つまり自己表出性と指示表出性という二重性から、おそらくこの二重性は人間の精神の根源規定と著者は考えているのだと推察できるが、人間が線を表現した考古学的歴史を探求してこの二重性を明るみに出すことによって、線の内在史、言い換えれば線の自己表出史が確認できるのではないか、そういう問が生まれたのだった。著者はその問に答えるべく、その「線の内在史」をたずね歩く。

 ただ、「認知が高度になればなるほど、自分の満足するように、微細に描きたくなってくるだろう」(本書29頁)、こう言った文章を読んでいるうちに、ふと私は思った。何故人間は「認知」が高度になったのだろう、と。愚問だが、他の生命体でも「認知」の高度化は発生しているのだろうか。不勉強な私にはよくわからないが、少し気になってしまった。それはさておき、著者が引用している「東田直樹のインタヴューの発言」は、スバラシイ文章だと、私は思った。

 物はすべて美しさを

 持っています(本書31頁)

 こういった感受性は、自閉症者のみならず、多くの人が共有しているのではないだろうか。だから感動するのではないだろうか。

 著者のこの労作の今後の展開を、私は楽しみにしている。

 最後の作品は、伊川龍郎の七〇年代から現在に至る社会状況の分析と、その社会状況の矛盾に対して著者の改善策が書かれていた。私には現在の社会状況を分析した作品の感想文を書く能力はない。私は昔から最も難しいのは「現状分析」だと思っている。それはともかく、著者の改善策への回答を引用して、この感想文の筆を擱きたい。「現在、国家の衰運は選択的消費の動きを手中におさめている一般市民がどう考え、どう動けるかに握られている。」(本書34頁)

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