ミシェル・フーコーの「精神疾患と心理学」

 私はこれまで、デヴィッド・クーパーの「反精神医学」、ロナルド・D・レインの「自己と他者」、また、彼等に影響を与えたサルトルの「方法の問題」、こういう順序で三冊の本を読んできた。これらの著作に共通して主張されている事柄はこれだ。

 所謂「統合失調症」という「精神病」にり患している人も含めて、人間とは何か、この問題を考察する場合、先験的な理論・理念・概念などで決定するのではなく、そうした先験的な観念を先立てるのではなくて、歴史的な状況の中で家族を含む他者や集団と関係して生きるひとりひとりの人間の具体的な生活から理解する、つまり様々な関係にいかに対応しているか、いかに自己表現をしているか、ここを原点にした人間理解を展開した著作だった。

 さて、わたしはさらに進んで、この著作を読んだ。

 「精神疾患と心理学」 ミシェル・フーコー著 神谷美恵子訳 みすず書房 1999年1月28日第24刷

 この著作は一九五四年に初版が出版され、一九六六年の第三版で改稿されている。本書はこの第三版を翻訳したものである。

 この本は、精神病理学と身体病理学に同じ病理学として普遍的な病理学とでもいうものが存在しているのか、つまり、身体病理学の治療法と同質の治療法を精神病理学に求めるのは精神病に対する正しい対応の在り方なのか、この根本の問いへ著者はひとつの解答を与えている。

 著者の考え方からすれば、所謂「精神病院」とは、現在の文化の秩序を維持するために設立された施設、この施設の中には文化に適応できない異端者・不適格者・無能力者・文化否定者等が収容されている。そして、現在の文化とは、著者によれば、商業文化であり、「精神病院」に収容されている人々は、富の生産、流通および蓄積に参加できない、そういった共通性があり、その結果、文化世界から疎外されて「精神病院」に収容される。文化に適応できる人間を理性的な人間だと規定するならば、収容者たちは非理性的な人間と規定することが出来る。これは、とりもなおさず、文化における理性と非理性との対立だ、そう言って過言ではない。

 確かに、資本主義の成立過程をみれば、この著者の「狂気」に対する見解は極めて説得力がある。唐突に聞こえるかもしれないが、例えば、マルクスの「資本論第一巻第二四章いわゆる本源的蓄積」を読んでいただきたい。フーコーのいう商業文化、すなわち典型的に言えば英国の産業資本がその成立過程で無産労働者をどのようにして創出したのか、現在の秩序に迎合して生きるために民衆はどのような犠牲を払ったのか、そのスサマジイ歴史を学ぶことができる。社会学、哲学、文学、また学校も現在の社会秩序の中でしっかり生きることが出来る人間を創造するだろう。当たり前の話だが、けっして奈良時代や江戸時代に適応する人間を創造するわけではない。

 現在の秩序に適応できない人間が幻想や妄想、幻聴等で自己表現している場合、例えばそんな「狂気」を「統合失調症」と診断するのだろう。それならば、はたして現在の文化に永遠の善があるのだろうか。

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