後藤光治個人詩「アビラ」17号を読む。

 こんな個人詩誌を読んだ。

 後藤光治個人詩誌「アビラ」17号 編集発行/後藤光治 2024年3月1日発行

 全体の流れは従来通り、巻頭に「ロラン語録」が掲げられていた。次に著者の<詩作品>六篇、「ロラン断章(十七)」、ここには「ジャン・クリストフ(12)」と「清水茂断章」が収録されている。そして「詩のいずみ」では前号に引き続いて<「荒地」を巡って(2)>。最後に「鬼の洗濯板」。このコーナーも前号に引き続き著者が教育者を職業として生きて来た経験を基本にした「学校の現実―教育再生への視座(2)―」。以上の内容だった。

 「荒地」に関しては、鮎川信夫、森川義信、トーマス・マンの「魔の山」、「トニオ・クレーゲル」を軸にして論じられている。言語で構成せられた「意味」を通して共鳴・共感する場所の創出、もう一度この視点を詩に取り戻す時期に来ているのではないか、そう言った問いが提起されている。

 「教育」問題に関しては、私にはまったくわからない。ざっくばらんに言えば、かつて不良少年だった私は自分が好きな本やギター、手品や革命思想に没頭していた。学校の勉強には興味がまったくない落ちこぼれだった。それでも現在まで一命をとりとめてこうして生きているのだった。だから、「教育」問題に関してはチンプンカンとしなければならない。

 さて、今号に発表された詩作品を見てみよう。まず、「罅」は少年時代に住んだ家の状態、特にあちらこちらに人体模様とでも言っていい模様を描いている罅を脳裡に浮かべて、宇宙感にまで高めんとした作品だった。次の作品「蝶」は廃村に舞う蝶のさまざまな姿を描く言葉の風景画とでも言えばいいのだろうか。次の二作、「トランプ」と「ああロシア」は著者による米国の前大統領トランプとロシアの現大統領を批判する詩篇だった。だが、もし彼等を批判するなら、もっと言葉を尽くして詳細にわたって事柄の真実を追求して、書くのが本道ではないだろうか。歴史批判を活字にするならば。私にはそう思えてならない。作品「夢」はおそらく多くの男が見る夢を描いている。好きだったあの娘を見る夢を。最後の作品「青春」は著者の詩集「吹毛井」からの再録だった。

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