ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」第一篇

 「人間」という言葉をボクは時たま使うが、おそらくボクだけじゃなく、少なくとも年に一回か二回くらいは誰だって「ニンゲン」とつぶやいたりしてるんじゃないか、ボクはそう思っている。

 ところで、いざ、じゃあ、君、「人間」って何? まともにそう聞かれたら、ちょっと答えに窮するじゃないか。

 この古くて新しい問いに、さまざまな人がさまざまな答えを出してきた、そして、現在も出し続けている途上である。今夜の「ローザ・ルクセンブルク読書会」第五回は、まず、この問いに対するひとつの答えを、マルクスの「資本論」第二巻第三篇をとおして、学ぶ。

 「資本蓄積論」第一篇、ローザ・ルクセンブルグ著、長谷部文雄訳、青木文庫(上巻)、1978年11月1日第一版第一四刷。

 この本の「第1章 研究の対象」で、ローザはカール・マルクスの「資本論」第二巻第三篇は、社会的総資本の再生産の問題を提起したと述べ、さらに続けてこう書いている。

「生産の規則的な反復は、規則的な消費の一般的な前提にして基礎であり、従ってまた、人類社会ーその歴史的形態の如何をとわずーの文化的実存の前提条件である。」(P9~10参照)

 少しわかりづらいと思うので、ボクなりに出来るだけわかりやすく表現したい。ただ、ボクが「資本論」全三巻を通読したのは二十三歳の時。もう四十五年昔。ほとんど忘れてしまって、うろ覚えの記憶を辿ってみる。……むかし、むかし、ドイツというところにマルクスという男がござって……その男が、なあ……追放されて、ロンドンに渡って、なあ……極貧の中で、ええっと、さあ、部厚いむずかしい本を書いて、さあ、なあ、ああ……

 さて、一般的に言えば、人間は他の生命体と違って、一日労働すれば、自分の生活で消費する以上の生産物を生産する。これを剰余生産物と呼ぶことにする。もちろん、ある個人によっては労働能力を喪失している場合があるし、また、幼児や高齢者で十分働くことが出来ない状況の場合もある。しかし、ここが人間の偉大なところと言っていいが、他の人の剰余生産物で彼等に手を差し伸べる能力まで、人間は持っている。

 この人間労働という特別な能力が、歴史の根底を支えてきた。古代奴隷制という社会は、奴隷の生産した剰余生産物を奴隷所有者が収奪して成立した。当たり前の話だが、奴隷が自分の食い扶持以上のものを生産できないなら、誰も奴隷を所有なんてしないだろう。中世の封建時代は、領主が農奴の剰余生産物を収奪して成立した。資本主義社会は、労働力の商品化をとうして、資本家と労働者という二大階級を毎年再生産していく。しかし、ここから先は、各自で努力して勉強して考える領域だと、ボクは思う。自分の現在につながることだから。

 ただ、人間は、人間労働を根底にしてさまざまな歴史を生きてきたことは、誰でも理解できると思う。あえて言うまでもないが、労働者や資本家ばかりか、政治家でも学者でも教師、公務員、芸能人、プロスポーツ、評論家、芸術家等々……すべての人間は労働者の剰余生産物を着て、食べて生きてきたのだ。人間は、いつの時代でも労働によって、基本的には生産手段の生産と、消費手段の生産をして、その上で生きてきた。マルクスは、資本論第二巻第三篇で、この生産手段と消費手段という生産の二部門の資本主義における資本の単純再生産を中心にして資本の再生産を解明した。ボクも、襟を正して、もう一度勉強する予定である。芦屋芸術で、「資本論読書会」を開催する時が、もうそこまで迫っている。ぜひ、参加して欲しい。

 ところで、ローザの意図するところは、むしろ「拡大再生産」である。簡単に言えば、資本主義は常に拡大再生産をしている。だとすれば、常に増大する生産物は、いったい誰が消費するのか。そんな貨幣は誰が持っているのか。国内の資本家、労働者だけでは消費できないだろう。そんな貨幣はないだろう。この増大する生産物を消費するのは、国内ではなく、その外に求めざるを得ない。ローザは「資本蓄積論」を一九一二年に書いている。帝国主義国家の海外進出の根拠を明らかにしようとしたのだろう。

彼女は序言でこう言っている。

 「さらに立入って見て私が到達した見解は、ここには(資本制的生産の総過程。注は山下)叙述上の問題があるばかりでなく、理論的にマルクスの『資本論』第二巻の内容に関連し、同時に今日の帝国主義的政策ならびにその経済的根柢の実際に関係ある問題も存在する、ということであった。もし私がこの問題を科学的に正確にとらえようとする試みに成功したとすれば、この著述は、純理論的な興味以外に、おそらくは、吾々の実践的反帝国主義闘争に多少の意義をもつはずである。」(7頁)

 浅学のボクには断定できないが、ローザの理論は誤っているのかもしれない。けれど、単なるボクの推測の域を出ないが、彼女は、ドイツとロシアが開戦した時、「戦争はやめろ! 政府を倒せ!」、ほとんど絶叫ともとれるアジテーションをしている。帝国主義の権力者や経済の独占体の横暴の下、第一次世界大戦は開戦されたが、実際の戦争で殺しあうのは権力者ではなく、彼等とは無縁のドイツとロシアの労働者・農民だった。労働者のインターナショナルを信じる彼女にとって、労働者がたがいに殺しあう戦争を、身を投げ出して阻止したかったのだろう。彼女は、帝国主義の海外侵略の理論的根拠を解明する必要に、迫られていたのではないか。確かに彼女の理論はマルクスの「資本論」に表現された再生産表式から帝国主義論を構築しようとする無理があったのかもしれない。ボクにはよくわからない。凡愚の徒である。しかし、ローザの直線的に疾駆せんとする「資本蓄積論」は、革命家の熱情と栄光にいまでも輝いているのではないか。

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