「エックハルト説教集」再読

 以前この著者の本を読んだのは、おそらくハイデガーがこの著者に言及していたためだったのか、その流れの中で読んだのだろう。

 このたび、再読した。それは、先日読んだイーブリン・アンダーヒルの「神秘主義」という本に詳しく紹介されていて、その言葉の激しい川に流されたのだった。私の読書体験の旅行記では、さまざまな川が流れている。

 「エックハルト説教集」 田島照久編訳 岩波文庫 2005年9月26日第11刷

 この本はエックハルトの説教二十二篇と論述「離脱について」、そして四篇のエックハルトにまつわる伝説で構成されている。一三二八年頃に亡くなった一宗教家にさまざまな伝説まで生まれている。

 以前読んだときの私の記憶の中では、「観想的生と活動的生とについて」(本書206~224頁)、これは「ルカによる福音書第十章第三十八節~第四十二節」を根底にしたエックハルトの説教だが、この文章が今でも鮮明に残っている。言うまでもなくエックハルトの常に原初から働く知性によってルカによる福音書の言葉が解釈されているのだが、これはいったい何だ、そんな驚きだった。イエスの足もとで恍惚とするマリヤを原初から優しく批判する言葉だった。詳細は書かない。短い文章なので、興味がある方は、ぜひ本文に当たっていただきたい。

 ところで、私はエックハルトの言葉を、原初から働く言葉と規定してみたが、彼は「原初」についてこのように語っている。

「天使も人間もすべての被造物も、その原初の流出においては、等しいものとして、神から流出したのである。もしものをその原初の流出において受けとる人があれば、その人はすべてのものを等しいものとして受けとることであろう。それらのものが時間の内ですでにこうも等しいならば、それらは神のうちで、つまり永遠の内ではもっとはるかに等しいものである。一匹のハエといえども神の内でこれを受けとるならば、それは神の内では、自分自身の内にある最高の天使よりも貴いものとなる。さて、すべてのものは神の内でみな等しく、神それ自身でさえある。」(本書91頁)

 注意するまでもないが、やはり、最終行に注意して欲しい。「すべてのものは神の内でみな等しく、神それ自身でさえある」、エックハルトにとって、これが原初なのか。もう少し引用しておこう。

「何年か前のことだったが、どの草をとってもそれぞれちがうのはどうしてなのかときかれることがあるかもしれないなと、ふと思ったことがあったが、あとで実際そうたずねられた。これらはなぜそんなにちがっているのかと。そこで次のようにわたしは答えた。どんな草もこんなにも互いに似ているのはどうしてなのだろうか。このことの方がもっと驚くべきことではないかと。<中略>。すべての天使たちが原初の純粋性においては、ひとりの天使であり、全くの一であるのと同じように、すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一であると。」(本書118~119頁)

 例えば、「草」という名詞を、「人」という名詞に、あるいは「被造物」または「神」という名詞に入れ替えて、もう一度全文を読んで欲しい。

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