この無宗教の私が、はたして神を観ることが出来るのだろうか? そのためには、いかなる有効な方法があるのだろうか? 今回再読した本にはそのヒントが提言されている。その一例をあげてみよう。
旧約聖書の冒頭の「創世記」には、この宇宙の万物の根源が神である、そういった主旨の文章が書かれている。そしてさらにこう述べている。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(「創世記」1章26-27。日本聖書協会1955年改訳)
つまり、人間は神の似像である、聖書にはこうした命題があたえられている。さて、それならば、人間それ自体の本質を観ることによって、神の似像を発見し、そこから神の門の入り口にまで接近することが可能ではないか。
「神を観ることについて」 クザーヌス著 八巻和彦訳 岩波文庫 2003年12月15日第2刷
クザーヌスはこの書において、神へのさまざまな接近方法を表現している。こうした論を読んでいるうちに、ふと私はこんなことを考えていた。
私の個人的な体験ではあるが、七年前、私は妻を亡くし、苦しみを味わって生きてきた。生活においても商売においてもいつも同じ屋根の下で支えあって生きてきたためか、私は彼女を失ってから現在まで、仏教でいう所謂「愛別離苦」に苦しんできた。この間、同病相憐れむというのか、愛しあって配偶者と別離した人たちと友人として付き合ってきたが、やはり私同様、言いがたい苦痛の日々を送っていた。そして、人に話しても結局わかってもらえないから、沈黙することを選んだのだった。いや、沈黙を選ばざるを得なかった。
私はこの「神を観ることについて」を読んでいて、このたび、著者は神と合一した自らの神秘体験を根底にして、それを一人でも多くの人に理解してもらわんと、論を尽くして書いている、そう思った。神から著者に向かってやって来た神秘体験を、彼は沈黙せず、おそらく少数者が理解するに過ぎないのを知りつつ、力の続く限り、出来る限りわかりやすく具象的に表現したのだった。私のような無宗教の人間にはついていけないような神秘体験を、沈黙せず、語り尽くそうとしている姿に、私は感銘した。
この本には表題作の他に、「オリヴェト山修道院での説教」と「ニコラウスへの書簡」二作が収録されている。著者の最晩年の著作だが、私には色々参考になった。一例をあげてこの読書感想文の筆を擱く。
オリヴェト山修道院に入るある修道士にクザーヌスはこのように語っている。この説教は彼の死の前年、一四六三年になされたものである。まず、クザーヌスは修道士とは何かをこのように定義づけている。
修道士(monachus)とは、monosつまり「一人」という意味の語に由来するのであり、それにchusという語尾が付けられているのであるから、修道士は「一人で居る」ことが義務づけられているのである。(本書161頁)
スバラシイ定義ではないだろうか。また、つづけてクザーヌスはこう語っている。
修道士がなすべきことは、独居することであり、悲しみのうちにいなければならないということである。なぜならば、悲嘆することが務めとして与えられたのだからである。(本書162頁)
そして、修道士が悲嘆しなければならない理由を三つあげている。そのうちのひとつは、「マタイによる福音書」五章にこう書かれているからである。
悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められるからである(マタイ五・四)
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