フォイエルバッハの「唯心論と唯物論」

 フォイエルバッハは、一八〇四年七月二八日にバイエルンのランズフートに生まれ、一八七二年九月一三日、ニュルンベルクの近郊レッヒェンベルクで没している。六十八歳だった。

 いままで私が読んだこの著者の作品を時系列であげてみれば、一八三九年の「ヘーゲル哲学の批判」、一八四一年の「キリスト教の本質」、一八四二年の「哲学改革のための暫定的命題」、一八四三年の「将来の哲学の根本問題」、以上四篇だった。ただ、岩波文庫版の「キリスト教の本質」には、一八四二年の「ヘーゲルの宗教哲学と私の宗教哲学」、一八四五年の「人間と自我」、この両論文は「宗教の本質」への批判の反批判であるが、それも併せて私は読んでいる。このうち「人間と自我」、この作品は「唯一者とその所有」の著者シュティルナーへの反批判であり私は興味深く読んだ。

 さらにすすんで私は著者のこの本を読んだ。

 「唯心論と唯物論」 フォイエルバッハ著 船山信一訳 岩波文庫 昭和43年12月20日第十六刷

 この著作はフォイエルバッハの晩年、一八六六年に発表された。一八六〇年に妻が経営していた工場が破産したため、おそらく困窮した状況の中で書かれたに違いないと、私は推察する。その後、彼は病気に悩まされ、一八七二年、窮乏のうちに斃れる。

 さて、私は「芦屋芸術」のブログで二回にわたってこの著者の著作を紹介しているので、今回はこの文章だけを引用しておこう。

 然しながら、「神の存在および不死を否定すること」は、不死・宗教の本質等々に関する私の諸著作の課題ではない。神の存在および不死が少なくとも本や画の中に、信仰や表象の中に実存することを誰が否定することができようか? そうではなくて、不死・宗教の本質等々に関する私の諸著作の課題は、単に神および不死の、または同じことであるがこれらのものに対する信仰の真の意味および根拠・純粋なる原本を認識することである。(本書7~8頁)

 これでしばらく私はフォイエルバッハの本を開かないだろう。いや、私の年齢からすれば、彼の著作に触れるのはこれが最後かもしれない。彼の唯物論は、せんじつめれば「物質」という概念を「神」や「精神」という概念の前提とする、そんな単純な論ではなかった、少なくとも私はそう思っている。

 一八三七年十一月二二日、フォイエルバッハはベルタ・レーヴと結婚している。彼女はキリスト教批判によって大学を追放され下野した彼を愛し、彼の哲学の理解者だったろう。そればかりではなく、工場経営者でもあった彼女は彼の生活の支えにもなった。その仕事を彼も手伝っていた、どこかでそんなことを読んだ記憶も私にはあった。

 フォイエルバッハは、神の愛の本質は、人間の愛だ、そう言い切っているが、おそらく、フォイエルバッハの愛の原点は、具体的にこの現実に実在する愛、すなわち、彼の妻、ベルタ・レーヴへの愛だった。今回の読書経験を通じて、私はいよいよこのように確信したのだった。

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