街並み

 複雑怪奇な街並みだったといっても、いったい何が言いたいのか、誰にも理解はしてもらえないだろう。確かに彼の記憶も既にボンヤリして薄闇に漂っているばかりだが、それでも気味悪いあの街並みの気配だけは脳裏にこびりついている。彼はその気配の跡をたどってもう一度あの奇怪な街並みを言葉で再生したい、細部を書くことによってあの奇妙なヘドロの街から脱出して解放されたい、深刻といえばいいのか、切実な思いといえばいいのか、彼はノートの上にペンを走らせていた。

 財布を失くしたのは確かだった。けれどもそれをどこで落としたのか、置き忘れたのか、あるいはひょっとして誰かに盗まれたのか、皆目見当もつかなかった。ただ確実に言えることは、財布はそれまで彼の手元にあって、忽然とそこから去ってしまった、この事実だったろう。彼は自分の手のひらを見つめ続けた。ここだ、ここに存在していたのだ、その時、左右の手のひらの間から人っ子一人いない街路が続いていた。

 だったら、ここが街路の果てだろうか。待てよ。そもそも物事に果てなどあるのだろうか。青少年時代を生きているなら未来の果てを空想するのはまだしも、彼も既に人生の晩年をさ迷い歩いているのではないか、棺桶に向かって。あえて果てはどこだと問うなら、右人差指でじっと棺桶を指さして苦笑いでもしておこうじゃないか。いやはや。飛んだ横道にそれてしまった。俺は何を書こうとしていたのだっけ?

 百周年記念とか、何か祝祭を催すためにゴルフ場を開放しているに違いない。だだっ広い緑の芝生の高原のあちらこちらから、飯盒炊さんでもやっているのか、煙が立ち上っている。何十組のグループがこの祝祭に参加しているのだろう、赤やら青やらベージュやら、さまざまなテントが張られている。しかし誰もゴルフクラブは握っていない。箸やフォークやグラスなどを握って、どんちゃん騒ぎの真っ最中。コーラスやシンバルやカスタネットの音さえ。

 おや。Tがいるではないか。十歳余り年上だが、もうかれこれ三十年前に別れた切り、音信不通。ビジネス上のトラブルで最後まで和解できなかったのだが。……まだ元気そうでニコニコして、あの当時のままの姿。飯盒に米を入れて、水道で洗っている。M、ずいぶん老けたじゃないか、どこか体の具合でも悪いのかい。ボクはまだまだ元気モリモリ。ほら、これを見てくれ、この胸を見てくれ。Tシャツをまくり上げて、胸毛に覆われた逆三角形の肉体美を見せつけてくる。ほんとうにこの男、Tだろうか。彼は確か三年前に食道がんで亡くなった、そんな噂を耳にしたはずなんだが。それじゃあ、この男、何者なんだろう。

 顔をあげると、ずいぶん夜も更けていた。灯りひとつない。物音もしない。ここはまだゴルフ場だろうか。それとももう一つの街並みだろうか。彼の右手を握っているほっそり柔らかい誰かの手。しかし、手首までは見えるのだが、そこから先はまったく闇に消えている。あるいは、手首だけが存在する生命体なのかもしれなかった。いや、そうに違いなかった。左手で手首の先をまさぐってみても無のようなものを撫でているだけだった。何もない。何も存在しない。だがしかし、不思議な話ではあるが、Mの耳もとにそっとささやく湿った声がした。

 あなたは あなたの手で ぬぐってください

 空虚を このあたしの空虚

 ええ 四つ葉のクローバーを入れて

 あした あなたに手紙を送ります

 もう一度 愛して 狂ってしまったあたし

 ねえ お願い この世に存在しないこんなあたしを

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